関東地方のおいしいそば屋

種物.それはおかずも一緒に楽しむ蕎麦の食べ方と筆者は考える.せいろやかけ,あるいは冷かけのように蕎麦とつゆのみのシンプルなマリアージュもいいが,時に種が供する足し算の味わいに舌鼓を打つことも捨てがたい.きつね,たぬき,玉子とじ,おかめ,天ぷらと実に多くの種物があるが,取り分け,筆者が好む一品に「かしわ南蛮そば」がある.

「かしわ」とは鶏肉のことで元々は江戸時代,生類憐みの令で生き物の殺生が禁じられていた時代の「肉の隠語」1)に由来するのだとか.もっとも当時は現在の「ブロイラー種」ではなく,日本の在来種の茶色の鶏だから少々事情は異なるわけではあるが・・.本来は「黄鶏(かしわ)肉」なわけですね.現代ではわかりにくいこともあってか「鳥南蛮そば」とのお品書きになっているお店もある2).

いずれにせよ,筆者の愛する「かしわ南蛮そば」は鶏肉と長葱が主の具材となる温かい汁そばである.歴史的には「鴨南蛮」からの派生系と言えるが,ちょっと高級志向な「鴨」3)よりかは鶏肉の方が庶民には懐事情に合うというもの.加えて,鶏肉の良質なタンパク質を補給できるのだからありがたいものである.

おっと忘れてはいけない.鶏ムネ肉には疲労回復効果のあるイミダゾールジペプチド4)も豊富だからいいこと尽くしだ.そんなかしわ南蛮を求めて訪問したのが浅草にある「尾張屋本店」さんだ.かしわ南蛮は地元の行きつけでもよく食すが,改めて取り上げるのならこちらのお店がいいと決めていた.なぜなら,「尾張屋本店」さんはかの文豪・永井荷風が毎日のように通い,決まってかしわ南蛮を食べたという歴史的エピソードがあるからだ.彼の著書「断腸亭日乗」を読むと連日のように“正午浅草(午後浅草)”との記述がある.“尾張屋”の屋号は出てこないまでも浅草への来訪は同時に尾張屋さんへの訪問を含んでいたものと推察される.実際,浅草の他店で食事をする時は店名が明記されている5).あえて店名を明記しないのは彼にとっての浅草での食事は尾張屋さんでのかしわ南蛮と相場が決まっていたからではないだろうか.それにしても“いつも決まってかしわ南蛮”とはね・・.筆者も確かに頻繁に注文する品もあるにはあるが・・お店によってはそのお品書きのお客として覚えられていることもあるが,さすがに限定一択ということはない.そこまでの「かしわ南蛮愛」とはね.しかも尾張屋さんオンリーとはね.その変人ぶり(わる口じゃないです.リスペクトです)も含めて,さすがに筆者でもこの人には敵わないと思う次第である.

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そんな思いを胸にお店への歩を進めていると11時半の開店前なのにすでに行列が・・.まあ,浅草と言えば浅草寺もあるし,観光地ですからね.加えて,流行り病も小康状態の今ならこの人出はやむなしかなと行列の最後尾に足を止めると,早速,開店の暖簾が出るのが見える.吸い込まれるようにお客が入って行く.筆者もその流れのままに店内へ.丁寧に二人掛けの小さな席へと案内される.そうするとすぐに始まる注文合戦.こちらはすでに決まっているので早めに手を挙げ注文を済ます.『かしわ南ばんそばをお願いします』.お茶を頂きながら一息つきつつ,お品書きを観覧.メニューは豊富だ.大きい海老天が2尾のった「天ぷらそば」が一番の人気メニューだとのこと.斜め横に座っておられた老紳士はこれを頂いていた.内心,『すごいなぁ・・筆者の胃袋には強敵かな』と考えていると,あっと言う間にかしわ南ばんが配膳される.『お待ちどおさま』.さすがは人気店,回転速度も一流だ.しばし眺めてみる.鶏肉と長葱のみが温かい汁そばの上に鎮座するその姿はまさに威風堂々といったところである.『これがかの文豪が愛した蕎麦か』そんな感慨にふけるのもつかの間,いざ実食である.まずはつゆから,『・・ズズ』.おお,甘口で実に筆者好み.何より鶏肉から出る味わいとマッチしていてすでに最高のスープになっているではないか.『こりゃ毎日イケる』,刹那の納得である.ついで蕎麦を,鶏肉を,長葱を・・と食を進めていく.細打ちの麺線は鶏の脂をまとったつゆを巧みに絡め,口内に収まっていく.『・・うまい.すごくうまい』.つい先ほどまで『鴨は高級志向だから』とか『鶏肉は庶民的だから』とか思っていた自分が少しはずかしくなる.かしわ南蛮も十二分に「ごちそう蕎麦」であることに気づかされたのである.確かにそうだ.鶏肉と言えど,品種は様々だ.高級地鶏のかしわ南蛮だってあるではないか.『ごめんよ,かしわ南ばん.キミの魅力をちゃんと理解していなかった』.蕎麦の世界はまだまだ深い.お勘定を済ませ,店内を出ると休日の浅草の喧騒が飛び込んでくる.“マスクをしている”という以外はすでにかつての日常と変わらない光景だ.本当にこのまま収束するのだろうか.一抹の不安が脳裏をよぎりながらも,こうして再びの蕎麦屋探訪ができていることにどこか安堵を覚える自分がいる.

永井荷風も足しげく通ったこの町浅草,尾張屋さん.この「足しげく」自由に気軽に外出できるという日常のありがたさ.流行り病からの学びも伊達ではない.再開された蕎麦道中.まだまだ油断はできないが,蕎麦食文化の伝道を続けていこうではないか.荷風の一途な蕎麦愛にどこか自分を重ねつつ帰路へ着く筆者であった.

参考文献
見田盛夫【監修】(2006).東京 五つ星の蕎麦,東京書籍,Pp.142-143.
永井荷風著・磯田光一編 (1987).摘録 断腸亭日乗(上),岩波文庫
永井荷風著・磯田光一編 (1987).摘録 断腸亭日乗(下),岩波文庫
新島 繁 (2011).蕎麦の事典,講談社学術文庫


1) ほかにも「馬肉=さくら」,「猪肉=ぼたん」,「鹿肉=もみじ」がある.
2) 「かしわそば」や「鳥そば」,「若鶏そば」といった呼称もある.関西圏では葱の呼び方が関東と違うため「鳥なんばそば」との表記である.
3) 国産合鴨を用いている場合に限る.安価な鴨南蛮も存在する.
4) イミダゾール基を持つ必須アミノ酸のヒスチジンが結合したジペプチド(2つのアミノ酸が一つのペプチド結合で結合した分子)の総称とのこと(ちょっとわからない).イミダペプチド,イミダゾールペプチドとも称される.鳥ムネ肉や魚の赤身に多く含まれているとのこと.
5) 浅草のアリゾナキッチンという洋食屋さん.チキンレバークレオールという鶏レバーをトマトソースで煮込んだ料理がお気に入りだったとか.なんか旨そう・・.それにしても荷風さん,鶏肉がとても好きなんですね.

【店名】尾張屋本店
【読み】おわりや ほんてん
【電話番号】03-3845-4500
【住所】〒111-0032 東京都台東区浅草1-7-1
【アクセス】地下鉄浅草駅1出口から徒歩5分
【営業時間】11時30分~20時30分
【定休日】金曜日
【ひとり分の平均的な予算】1000円~2000円
【予約】不可
【クレジットカード】不可
【個室】有
【席数】70席
【駐車場】無
【煙草】全面禁煙
【アルコール】有(日本酒,焼酎)
【店のホームページ】https://g615000.gorp.jp/

 

 

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