二八そばの名前の意味は? 江戸時代、職人の隠語で蕎麦は「縄」と呼ばれていました。二八そばは?
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二八そばの名前の意味は?
二八そばの「二八(にはち)」が、どういう意味かという論争は、江戸の昔から繰り返されてきました。
2×8=16文の代価説
二八そばの値段が16文だった時代に、九々で「2×8=16」と言うことから、16文を「二八」と呼んだという代価説が有名です。
当時の江戸っ子は、仲間うちだけに通じる隠語を使って話すことを粋と考えました。
例えば、「そばを手繰る(たぐる)」という言い方がありますが、大工の職人の間では、「縄」とか「下げ縄」とは「そば」を意味しました。
「きょうは縄でも手繰るか」と言えば、「きょうはそばを食べようか」ということの粋な言い方だったのです。
小麦粉2割 対 そば粉8割の配合率説
もう一つの説は、二八そばを打つとき、そば粉8割に小麦粉2割を混ぜて作るため、この比率から名付けられたと言う配合率説。現代のそばの世界で二八は、こちらの配合率の意味で使われています。
代価説、配合率説、どちらが正しいのかというと、蕎麦研究家の新島繁さん(1920〜2001)が答えを出しています。
それによると、そばの値段は時代により変動してきたため、その値が20文を超えた慶応年間(1865〜1868)を境に、慶応以前は「2×8=16文」の代価説。慶応以後は、8割対2割の配合率説が正しいとのこと。
江戸時代のそばの値段
参考までに、江戸時代のそばの値段の推移を記しておきます。
そばが16文になったのは、文政年間(1818〜1830)のこと。それ以前は、7文から14文ほどで、安い値段でした。
天保年間(1830〜1844)には、16文で安定しますが、贅沢を禁ずる改革令により、一時期、15文に引き下げられます。
万延年間(1860〜1861)には、16文に戻りました。
その後、慶応年間になると、20文から50文と、高価になっていきました。
- 参考資料/蕎麦の事典(新島繁著、講談社学術文庫)※片山虎之介が解説を書いています。