かけそばの注文がはいると、必ず一声かけた
東京・浅草の『並木藪蕎麦』の二代目主人であった堀田平七郎さんは、かけそばを注文する客がいると調理場に、気持ちを引き締めてそばを作るようにと、一声かけたという。
ほかのメニューの注文が入っても、そういうことはなかった。かけそばのときだけ、必ず声をかけたものだと、三代目当主、堀田浩二さんが話してくれた。
いったい、なぜなのだろうか。
話を進める前に、まずは、かけそばとは何かを、おさらいしておこう。温かいそばの基本となるメニューで、茹でたそばを一旦冷水で洗い、それを再び湯に入れてあたため、丼に移した後、かけ汁(東京では甘汁とも呼ぶ)をかけて供する、そばと汁だけの極めてシンプルな料理である。
しかし、茹でたそばを、冷水で洗ってから再びあたためるなどという手のかかることをしなくても、茹であがったそばを、そのまま丼に移して、かけ汁をかければよさそうなものを、なぜ一旦、冷水で洗うのだろうか。
それはそばにしっかりした食感を与えるための作業なのである。茹で上がったそばを、そのまま丼に移したら、そばは釜あげの状態で、ふにゃふにゃに柔らかくなってしまう。冷水で一度、締めることにより、初めて江戸の名店で供するにふさわしい、きりっと締まった腰のある「かけ」が完成するのである。
かけそばは特に難しいメニュー
さて、堀田平七郎さんは、なぜ「かけ」の注文が入ると、調理場に注意をうながしたのだろうか。
それは「かけそば」というものは、味、食感のコントロールが極めて難しく、食べ慣れた人が味わえば、調理した料理人の力量とか、店の心構えがはっきり読み取れてしまう料理だからに他ならない。
そばは、温度とタイミングの食べ物である。簡単に作れそうに見えるが、実は、あの細いそばに適度な食感を付与するためには、かなりデリケートで複雑な調整作業を必要とするのだ。
そのさじ加減次第で、かけそばは、感動するほどうまく仕上がったり、反対に、出前で届けられたそばのように、なんとも残念な状態になったりする。
温度と時間の管理を、わずかでも間違えると、細いそばの食感は、硬すぎるか、柔らかすぎるかの、どちらかに転んでしまう。硬いと柔らかいの間には、無限の段階がある。その中の、たった一点に命中させるという離れ技を、そば職人は、湯の中を漂う麺の色を見ただけで行っているのである。
これが冷たい「もりそば」であれば、あたたかい汁の中に入った「かけそば」よりも、時間経過による変化はゆっくり進む。
しかし、「かけ」は難しい。そばは湯であたためられ、熱い汁に沈められる。時間経過とともにアルファ化は進行し、麺の腰の張り具合は、秒単位で変化し続ける。客が食べて頃合いの腰を備えた状態になるタイミングで、そばをテーブルに運び、食べ終えるころまで、腰の張りを維持するように仕上げなければならない。
極上のかけそばを安定して作ることのできる職人は、名人と呼ぶにふさわしい腕を持っていると断言できる。
堀田平七郎さんは、このことを念頭に、「かけ」の注文が入ると調理場に声をかけ、そば職人の気持ちを引き締めていたのではないだろうか。
職人の心意気が伝わってくる逸話である。
読者の皆さんが次にそば店を訪ねたときには、ぜひとも「かけ」を注文する、油断ならない客になっていただきたい。
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(取材店をご紹介します)
並木藪蕎麦
東京都台東区東区雷門2-11-9
電話 03-3841-1340